DX戦略の本格化へ──富士薬品の変化を促すエンジニアたちの役割とは
複合型医薬品企業のDX。3つのチャネルをITで融合する挑戦
医薬品の研究開発から製造・販売までを行う複合型医薬品企業である富士薬品は、1930年に富山市で配置薬販売業として創業した。
一般家庭や事業所に常備薬を収めた救急箱を配置し、営業員が次回訪問時に使用した分のみの代金を精算する配置薬(置き薬)は、日本独自の医薬品販売スタイルだ。全国の家庭や企業に約280万個の救急箱を設置している。
この配置薬販売を祖業に事業を多角化し、現在は「ドラッグセイムス(SEIMS)」を中心とした全国1,360店舗のドラッグストア・調剤薬局事業が売上全体の9割を占める。自社の富山工場では、プライベートブランドの一般用医薬品を中心とした生産も行っている。高尿酸血症治療剤など、専門的な医療用医薬品の研究開発も活発だ。
同社事業の特徴は、まず配置薬事業では営業員が訪問のたびに顧客からの健康相談に対応し、配置薬のリクエストも受ける。ドラッグストアでは来店客とのコミュニケーションを通して、最適な品揃えや接客・販促が重要になる。
配置営業が訪問をしなくても必要な時にいつでも必要なものを購入できるように、2022年からは同社が製造する医薬品や健康食品を取り扱う「富士薬品公式通販」などECにも力を入れるようになった。
医薬品の製造から、配置薬・ドラッグストア・ECという3つのチャネルで顧客に健康を届けることができる。いわば創薬から顧客へのラストワンマイルまでのネットワークは同社の強みである一方、顧客管理や販売支援システムの構築では課題も抱えていた。
当時の状況を、DX戦略推進本部情報システム統括部長の河中啓之氏はこう語っている。
「配置薬という創業のビジネスと、ドラッグストアの店舗、さらにはECチャネル。これらの融合に向けITを活用して大胆に進め、事業の全社的DX(デジタル・トランスフォーメーション)化を図ること。これは経営トップが常に意識していたことで、私が転職した5年前からすでに“配置と店舗の融合”という会社の合い言葉のようになっていました」(河中氏)
株式会社富士薬品 河中 啓之氏
DX戦略推進本部 情報システム統括部 情報システム統括部長
グループITの全体統括責任者。SIerにて製造・金融の領域へのサービス提供に従事。事業会社のIT戦略に興味を覚え、2018年12月に富士薬品に中途入社し現在5年目。 現在はグループ全体のIT戦略立案と統括を行う。
ただ、当時はまだIT部門の人数も少なく、配置薬やドラッグストア事業からの異動者も含めて20人足らず。配置事業やドラッグストア事業の販売管理システムは当然あったが、必ずしも運用は楽ではなく、現場からの問合わせに即答できるものでもなかったという。
「現状のシステムでは頼りにならないから、事業側もある意味勝手にいろいろなシステムや仕組みを作ってしまったりする。そのような個別のシステムがバラバラに存在する状態でした」と、IT戦略室室長の小林雄介氏も、当時を振り返る。
株式会社富士薬品 小林 雄介氏
DX戦略推進本部 IT企画推進部 IT戦略室 室長/プロジェクトマネージャ(社内認定シニアPM) システムアーキテクト
SIerにて様々な業種・業態へのサービス提供に従事。 システムのライフサイクル全般に関われる仕事ということで、6年前に富士薬品に中途入社。現在は、社内のIT中計企画やDX推進関連など複数のプロジェクトでPMを担当。
いわば個別最適化は進んでいくが、全体最適化ができていない状態。事業会社の基幹システムに、上流の企画・設計から運用・保守まで含めて一貫して携わりたいと、転職してきた岩田裕樹氏にとっても、戸惑うことが多かった。
だが、その課題を解決することが彼らに与えられたミッション。DX戦略の総司令部として、3人は徐々に本領を発揮するようになる。
株式会社富士薬品 岩田 裕樹氏
DX戦略推進本部 IT企画推進部 次長/情報システム統括部 IT基盤技術室 室長/IT企画推進部 社内認定ITスペシャリスト プロジェクトマネージャ/IT基盤技術室
SIer、製造業の情報システム開発を経て、2019年、富士薬品入社。ネットワーク、セキュリティ、サーバー管理、統合データベース構築プロジェクトのPMを務める。
鮮明なロードマップの実現に取り組むエンジニアたち
複数チャネル間の完全連動とデータ活用を推進し、全ての顧客接点における付加価値の増強と顧客目線での利便性改善、さらにはデータの蓄積・提供のための基盤を準備。お客様サービスの向上と相互送客を実現することが、DXの目標とされた。
2022年から2023年はDXの準備・助走期間。2024年には事業間データ連携が進み、チャネルごとに分散していた顧客IDの統合を経て、2025年から2026年にかけては、事業間やサプライチェーン全体を統合。最終的には「富士薬品経済圏」というものを実現する——そうしたロードマップを描いていった。
DXプロジェクト立ち上げの最初の時点では、専任組織として設立されたデジタル戦略部と情報システムのサポートに著名な戦略コンサルタント会社が入り、事業構想の絵が描かれた。
「いつまでもコンサルに頼っていていいのか。そんな疑問も湧くようになりました。事業自体をよく知っている自分たちができる限り挑戦していく、そして足りない面を補っていくという方向に転換しました」(河中氏)
現場力で事業改善を進める。こうした気づきこそがDXの本来の狙いであり、成果でもある。DX推進のためには、グループ全体を率いるDXの組織、さらにIT部門の位置付けをより明確にすることも重要になる。
それまでは人事、経理、総務など管理部門の一部署という位置付けだったIT組織。2023年に社長直轄のDX戦略推進本部が発足すると、その直下に情報システム統括部が置かれることになった。
さらにIT戦略、IT業務システム、IT基盤技術などの部署が設置され、ITの戦略性がより明確となる。いわば「攻めのIT」の体制が整ったのだ。
もちろんIT部門だけで全社DXが進むわけではない。事業現場とITシステムの融合に向けて、専任のデジタル戦略、事業側のDXリーダーとともに事業・IT双方の課題を洗い出すことも重要になる。
「事業側との強いパイプがあるからこそ、DXによる事業改革に力を発揮できる。どちらかだけの力で進めるのではなく、事業とITが一緒になってDXを進めていく。そしてそれを経営が後押ししているというメッセージにもなりました。本当の意味での変革を進めることができたと思います」(河中氏)
事業間統合データベースが本番稼働。配置薬・ドラッグストア・ECの顧客情報を共有
富士薬品のDX推進において鍵となったのが、事業間統合データベースの構築だ。先にも触れたように、複数のチャネルで個別最適として展開されていた顧客データベースを、一つのものに統合することは従来からの課題であった。
例えば、それまで配置薬の営業員は配置薬の顧客情報、ドラッグストアはストアの顧客情報しか知りえなかった。配置薬の顧客であるのか、あるいはECサイトの利用客でもあるのか、顧客から直接話を聞けばわかるものの、データベース上では知りようがなかったのだ。
事業別に管理されていた顧客情報を一つの統合データベースに集約することで、相互のリンケージが生まれる。富士薬品グループで購入することによる利便性、お得感、安心・安全を顧客が享受できる。いわば「富士薬品経済圏」というエコシステムが、ダイナミックに変わる可能性が生まれるのだ。
「配置薬の営業が顧客宅に訪問したときに、『店舗の方でもいつもお買い物いただいていますよね』といった会話ができます。家族構成や、ドラッグストアでの購入履歴などもわかった上で顧客対応ができるため、配置薬以外の商談ができるようになります。場合によっては配置薬のラインナップにはない薬を紹介したり、近くにストアがない人にはECサイトに誘導したりなど、相互送客もスムーズにできるようになるでしょう」(小林氏)
また、ドラッグストアでは店頭で割引クーポン券を来客に手渡ししていたが、統合データベースで顧客が管理できるようになれば、購入履歴や配置薬の利用状況などを参照しながら、より効率的で適切なクーポン配布が可能になる。
それぞれのチャネルが顧客の個別像を一体的に把握できるようになる。そのための統合データベースが、2023年11月に本格稼働を始めた。
この統合データベースの構築を直接担当した、IT基盤技術室室長 岩田裕樹氏は今回のシステム開発は決して簡単なことではなかったと、述懐している。
「配置薬のシステムとドラッグストアのシステムを連携させると、当然さまざまなやりとりが発生します。連携を強めれば強めるほど、コードが複雑になってしまうという問題がありました。そこで今回はデータを集めること、今後のシステム更改を楽にするためのハブ基盤の構築に特化しています。統合データベースへの一歩を歩み出したところですので、今後も継続的な開発が必要です」(岩田氏)
ちなみに今回の統合データベースは、AWSのクラウドデータウェアハウジングサービスである「Amazon Redshift」を活用して構築されている。
ドラッグストアの売上明細などを随時読み込むため、年間1億件以上のトランザクションとなるだろう。売上管理データベースとしてはかなりの規模となる。 ドラッグストア業界は、合従連衡が進む非常にスピードの速い業界であり、ITシステムの力がその優劣を左右するとも言われる。同社の統合データベースは、その競争を勝ち抜くための強力な武器にもなるのだ。
攻めと守りのITを循環させ、DX戦略を担う「ビジネス・トランスレーター」
2024年〜2026年を見すえたIT中期計画の下で、本格的なDX戦略を開始している富士薬品。その戦略を進めるために、今最も求められているのが人材だ。
「今後はシステム部門や事業部門だけではなく、相互が一緒にビジネスを考えていくパートナーとして会社の成長を支えていくことになります。事業サイド、あるいはシステムサイドでそれぞれの領域を越境して、異なる言葉を翻訳する“ビジネス・トランスレーター”の役割が重要です」(河中氏)
システム的には事業間統合データベースやデータの利活用など、“攻めのIT”がきわめて重要になるが、システムはそれだけでなく、ネットワーク基盤の保守管理、セキュリティ、IT資産管理、あるいはベンダーコントロールなど“守りのIT”領域もある。
「攻めれば守りが必要になり、守りから新たな攻めのポイントが生まれるということもある。その2つをうまく循環させるためには、それぞれの領域で力を発揮する人材が必要になります」(河中氏)
グループのDX戦略を個別のIT戦略にどう落とし込むかを検討しているのは、小林氏が率いるIT戦略室だ。顧客の要望を先取りしてシステムを作り続けるSIerと違い、事業会社の社内SEは、“新しいシステムをあえて作らない”という選択も可能なポジションだと小林氏は語る。
「事業側と話をしながら、役に立つシステムだけを作る。それが役に立つかどうかを判断するためには、広範な知識がバックボーンになくてはならない。IT人材をスペシャリストとして位置付ける社内の人事体制も整ってきました。スペシャリスト養成のための社内教育制度もリニューアルを重ねています。最近は若手エンジニアが自発的に社内外で勉強する機会も増えています。資格の取得が給与にも反映されますし、とても良い環境だと思います」(小林氏)
今後の人材要件として、医薬品販売に関する業務知識は入社後に十分学べるので、当座は不要であるという。
「それ以上に当社は複数の事業チャネルを持つ会社なので、それぞれ変化も激しい。その変化を楽しめる人材を求めています」(小林氏)
また、同社の「攻めと守りのIT」について、IT基盤技術室の岩田氏はこう語る。
「店舗と本部、事業部間のネットワークは、これまで中央集権型のネットワークで構築してきました。しかし今後は、DXでSaaSのサービスも活用するようになるため、今のネットワーク構成では限界が近い。事業部間のデータのやりとりも、単にテキストベースだけではなく、今後はカメラやセンサーが集めた画像を扱うようになります。大量のデータをAIで分析させるシチュエーションも出てきますから、データが質量ともに大きく変わっていきます」(岩田氏)
さらには、営業職が顧客データをモバイルで使うということも増えてくるため、大量のデータをいかに安全に処理するかは、技術的に大きな課題となる。ネットワーク構築は単なる守りではなく、DX戦略の攻めの要を担う重要な役割を果たす。そこに面白さを感じるネットワークエンジニアは、同社にとって必要な人材となるだろう。
「データサイエンティストやデータマネジメントの専門職はまだ当社にはいません。AWSなどのクラウドの知識、ネットワーク、セキュリティの知識・スキルを持つ人は、当社にとって貴重な即戦力。データという素材をうまく活用してくれる人材は大歓迎です」(岩田氏)
エンジニアに限らず同社の中途採用比率は高く、職場にはさまざまなバックグラウンドを持つ人も少なくない。そうした多様性が上意下達ではなく、フラットな組織風土を生んでいる。それが中途採用エンジニアの安心感にも繫がっていると言えるだろう。