北岡泰典「サピエンス全史」を大いに語る。

2017/09/27(水)19:00 〜 22:30 開催
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参加枠申込形式参加費 参加者
一般
先着順 3,000円
現金支払い
0人 / 定員30人

イベント内容

◎当日のタイムテーブル

19:00 開場

19:30 北岡さんと角川トークセッションスタート

21:00 交流会スタート

22:30 クローズ

♦北岡泰典(きたおか たいてん)

変性意識研究家。1956年、和歌山県田辺市生まれ。早稲田大学卒業後、北アフリカのサハラ砂漠に渡り、約3年間大手企業の仏語通訳に従事。以前から東洋西洋問わず、精神世界の分野に興味をもっており、80年代初めに、合衆国オレゴン州で 7ヶ月間の心理療法講習を体験。1985年NLPの出会いで、英国ロンドン市に滞在。ビジネスコーチング、通訳業務等に従事。ジョン・グリンダー、リチャード・バンドラー、ロバート・ディルツ、ジュディス・ディロージャの「NLP四天王」から直接直伝トレーニングを受け、正式認定を受ける。2002年帰国後は、海外での20数年のNLP研究を生かし、国内でNLPを活用したコーチング・セッション、ワークショップ、資格コースを数多く実施。現在に至る。

♦ 著書

・NLP入門書「Magic of NLP」

・ジェニー・Z. ラボード著「 ビジネスを成功させる魔法の心理学」翻訳

・ジョン・グリンダー&ジュディスディロージャ著「個人的な天才になるための必要条件」翻訳

・北岡泰典著「5文型とNLPで英語はどんどん上達する!」(ダイヤモンド出版)

・北岡泰典著「一瞬で新しい自分になる30の方法」(ダイヤモンド出版)

◎対象

「サピエンス全史」が好きな方 これからの新しい行き方を模索する経営者&ビジネスマン 新しいヒントを得たいクリエイター 新しい発想や哲学&思想を垣間見たい方 いろいろ悩んでいて、それを打破したい方 各界にイノベーションをおこしたいひと

以下書評です。

最近、ある親しい方から、「とんでもない人類の歴史書を読んだ。頭の中の思考形態が革命的に変わった」という意味のことを言われ、その歴史書を強く勧められたので、読んでみました (ちなみに、この方からの推薦がなければ、どれだけベストセラーでも、私は、この本を読むことはなかったと思っています)。 その本は、ユヴァル ノア ハラリ著『サピエンス全史: 文明の構造と人類の幸福』です。たしか、数日前に、紀伊国屋本店で「ビジネス書売れ筋 No.1」になっていたかとも思うので、読者の方で読まれた方もいらっしゃるかもしれません。 私は、原書 (『Sapiens: A Brief History of Humankind (サピエンス: 人類の歴史概観)』 by Yuval Noah Harari) で読んでみました。 以下に、私の感想を記します。

まず、英語版は読みやすいです (ただし、元々の原書はヘブライ語版のようです)。

この著者はユダヤ人の歴史家で、英語の構成と文体はかなり安易で、「ある程度以上の英語力」をもっているのであれば、翻訳の質は確認していませんが、英語で読まれた方がいいと思います。

ちなみに、何本か、ハラリ氏の Youtube 動画も公開されていますが、同氏の話す英語も、日本人にとってかなり理解しやすい英語だと思いました。

その、ハラリ氏の Youtube 動画についてですが、けっこう、『サピエンス』についてよりも、むしろ続編の『Homo Deus: A Brief History of Tomorrow (神としての人類: 未来の歴史概観)』についての動画が多いことに気づきました。 通常、これだけ「重要で、革命的」な大作の歴史書を書いた後は、普通は、いわゆる「ネタ切れ」して、「二番煎じ」的な本ばかり書くことになってしまいそうだと思いましたが、非常に珍しいこととして、印象的には、Youtube 等では、実はこの続編の方が本編より重要な書に見られているようにも思えたので、この続編を Amazon から購入し終えていて、『Sapiens』を読み終えたので、これから読んでみようと思っています。読了したら、また書評を書きたいと思っています。

続編の『Homo Deus』の日本語翻訳はまだ出版されていないようなので、現在、翻訳者が必死に翻訳している最中だと思われます (笑)。 ただ、数日前に『ホモ・デウスDVD BOOK』が宝島社から出版されています。どうも、これは、ハラリ氏の講演ビデオの内容の翻訳のように思われますが、91 分という収録時間から言って、以下の Youtube 動画 (「Yuval Noah Harari on the Rise of Homo Deus」) と同じ内容のビデオ収録かと思います。 https://www.youtube.com/watch?v=JJ1yS9JIJKs 該当の DVD の内容を実際に確認していないのですが、かりにもし同じ収録ビデオであるなら、正式な翻訳本出版以前のこういう商売の形態は、非常に興味深いと思いました。

ということなのですが、内容的には、『サピエンス』は、私にこの本を勧めた方が示唆したように、とんでもない歴史書だと思いました。 以下、私の具体的な感想を列挙します。

1) まず、著者には、強烈な「メタ (観照者)」の視点があると思いました。

誤解を恐れずに言うと、私は、現代の工学的、社会的インフラとしてのコンピュータ、インターネット、IT、VR (仮想現実)、AR (拡張現実)、IoT (Internet of Things)、AI (人工知能) 等のテクノロジーを生み出す基になっているのは、60 年代の「カウンターカルチャー」的思考形態だ、と首尾一貫して主張してきていますが、この歴史書も、かなり「ぶっとんだ人間」でないと、構想も、執筆もできない内容になっています。

ちなみに、私が言う「『カウンターカルチャー』的思考形態」とは、たとえばですが、「意識拡張剤」や瞑想等の手段で、人間意識を超えて「神的意識」を体験した人がもう一度現象界に戻ってきて、その神的世界を、人間的意識を使って表現する、ということを意味していますが、ハラリ氏もそういう人間の一人であることは間違いないと思います (実際、同氏は、「意識拡張剤」については明示的な言及はしていませんが、第 19 章の「化学的幸福感」の節で、人間の幸福感は外界に依っているのではなく、ドーパミン、セロトニン、オキシトシン等の脳内麻薬の分泌のし方に依存している、と明快に主張していますし、また、本の中で、数ヶ所、「執着を超えて現実をあるがままに捉える」ための「仏教的瞑想法」を極めて高く評価しています)。 ちなみに、私個人は、私の言う「『カウンターカルチャー』的思考形態」が、現在の国内のビジネスマンのモデル企業となっている Apple、Microsoft、Google、Facebook、Amazon (最近なら、Tesla も含まれると思います) 等の CEO の中に深く根づいている、と信じています。

これは、60 年代のカウンターカルチャー運動家たちが提唱した「既成の枠を超えた人間意識の拡張」のパラダイムの中で機能していない人が、これほど「幻視家」のようなビジョンをもち、これほど未曾有で革新的なビジネス モデルを提唱し、実現させることは不可能だろう、と私は考えているからです。

その意味で、今後、日本人で、上記のアメリカのモデル企業を創始した「幻視家」、あるいは、その流れを組むハラリ氏のような「文化の牽引家」が現れるとしたら、私の言う「『カウンターカルチャー』的思考形態」が第一の必要条件となると思うので、国内で、「カウンターカルチャー」が死語になっていることは、私には、実に極めて残念な状況です。

2) この本は、歴史を見る目を根本的に変えると思います。

たとえばですが、かなり意外なことですが、著者は、「農業革命」以前の「Foragers」 (直訳すれば、「食糧をあさり回る人」ですが、事実上、「狩猟・採集家」のことです) の社会・文化形態の方を「高く評価」していて、通常、学校で歴史的に意義があると学ぶ「農耕社会」については、「ある一定の場所に人間を人為的に定住させ、それまで『狩猟・採集家』として進化してきていた人間の脳と身体には合わない生活形態を強引に強いるようになった」という意味の非常に興味深い主張をしています。

また、現在、我々は、アメリカ、電球、自動車、インターネットその他の文明的要素にすでに慣れている思考形態 (= 一定のボックスあるいはパラダイム) の中でしか物事を考えるようにしかできなくなっていますが、『サピエンス』は、アメリカ、電球、自動車、インターネットがなかった時代に、人類はどういう思考形態をしていたか、についての「ボックスから出た」、「メタの視点」からの歴史の振り返り方を如実に教えてくれます。 たとえばですが、コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは 1492 年で、「たかだか」500 余年前です。

たしかに 500 年は、学校で学ぶ歴史としては、非常に長い年月に思えますが、かりに現在 50 歳の人がいれば、その人の人生の 10 倍程度でしかなく、また、少なくとも、ヨーロッパ人は、ギリシャ・ローマ時代から 3,000 年間は、北米と南米の新大陸の存在は「まったく知らずにいた」といった視点をもって、世界史を振り返ることは、まずないと思います。 この意味では、電球、自動車が発明されたのは、百余年前ですし、インターネットが発明されたのは、二十余年前です。これらの文明的要素がなかったときに人類はどういう生活をしていたか、について考えることは、「ボックスから出る」訓練になると思います。

たとえば、1784 年に、英国で、当時の交通手段としての乗り合い馬車の時刻表が世界で初めて作成されたそうですが、当時は、出発時刻はあっても到達時刻はなかったということです。これは、市ごとにまちまちの独自制定の時間があって、たとえば、ロンドンが 12:00 であっても、リバプールは 12:20 だったり、カンタベリは 11:50 だったり、したからでした。

1830 年に英国に商業的鉄道が開通し、10 年後に列車の時刻表ができたときに「標準時間」決める必要性が出てきて、鉄道会社がグリニッジの時間を標準化して、その後、1880 年 (たかだか 140 年前です) に英国政府によって正式に「グリニッジ標準時」が制定された、ということです。

訪れる市ごとに時間がまちまちだった時代に生きていたら、どうなっていたかを考えることは、実に興味深いことです。

3) ハラリ氏は、人間の思考が作り出すものは、国家、宗教、文化、科学、哲学、主義を含めて、すべて、「人間の想像物」だという (私自身の表現ですが)「精神的アナーキズム」とでも言うべき立場を取っています。

ただし、同氏によれば、人々、特に社会の構成員が「信じ込んだ」場合の想像物は、「嘘」ではなくなる (すなわち、「実際に影響力」を行使する「共同幻想」となる) ということになります。

言い換えれば、日本も、大和魂も、神道的な神も、すべて、自分が「日本人」と信じている人々が、日本国家と「思われる」共同体によって「信じ込まされている」だけの相対的幻想、ということになります。

私は、個人的は、この「精神的アナーキズム」は、「現象界から神的意識に向かう」ための方法論を明示化したロバート シャインフェルド氏 (シャインフェルド氏については、「新北岡遇辺メルマガ」で詳述しています) の立場につながるものがあると思っています。言い換えれば、シャインフェルド式世界観で世界の歴史を概観した著作が『サピエンス』だと言える、と思っています。

4) ハラリ氏は、「帝国主義」に関しては、かなり好意的に見ているようです。

同氏は、歴史的に、アジア・アフリカを中心とした、トルコ、インド、中国等の帝国主義は、宗教とお金を通じて、すなわち、経典にある神の命令を絶対視し、貨幣統一を行うことで、領土拡大を図った「既存の世界観の拡張」主義でしかなかった一方で、15 世紀に「大航海時代」に突入したスペイン、ポルトガル、オランダや、その後の英国、フランス等の帝国主義は、宗教とお金に加えて、「科学技術」をも活用した点に、明確な違いがある、という、極めて興味深い事実を指摘しています。

すなわち、科学的技術に基づいた近代帝国主義者たちは、「自分は科学的には『何も知らない無知』である」ことを明示的に、かつ率直に認め (!)、その上で、自分の「世界地図」の外にあるもの (たとえば新大陸) を積極的に知ろうとして、「大航海時代」を開始し、コロンブスのアメリカ新大陸の発見を実現させた、ということになります。

さらに、この帝国主義者たちは、科学は完璧ではなく、仮説は、実際の実験と検証の過程の中で、常に覆されるためにあることを知っていた (!)、ともハラリ氏は示唆しています。

この近代ヨーロッパ帝国の「認識的拡張主義」(これは、私自身の造語です。英語では「Cognitive Expansionism」になります。『サピエンス』では、「認識革命」という用語が使われています) の例としては、各国が新大陸の調査のために派遣した調査団に植物学者、地質学者、民俗学者等を随行させた、ということですが、実際に、1831 年に、英国海軍の軍艦ビーグル号に乗船した地質学者が、ガラパゴス諸島等での研究で進化論に決定的な業績を残したチャールズ ダーウィンでした。

また、近代帝国は、植民地を統治するためには、土着の言語と文化を知る必要があると考えていて、インド統治下の英国官僚は、カルカッタ大学で 3 年間学び、英国と当事国の法律、サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語、数学、経済学、地理学その他を習得する必要があった、ということです。

ハラリ氏は、このような「認識的拡張主義」に基づいた帝国主義は、科学的革命を経た近代ヨーロッパの国々だけに見られ、トルコ、インド、中国等の東洋の帝国は、目に見える既存の利益を拡張することだけに興味があり、新しい未知の領域を征服しようとした例は一度もなかった、と指摘しています (新大陸に対する非欧州国からの歴史的に最初の軍事遠征は、1942 年 6 月の日本海軍による (ミッドウェー作戦の一環としての) アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の上陸だった、ということです)。

ちなみに、近代ヨーロッパ帝国がこぞって、「認識的拡張主義」に基づいて新天地を求めた一方で、アジアの諸帝国は、そうしようと思ったらできたのに実際にはしなかったことを如実に示す資料として、中国明朝の鄭和の宝船とコロンブスの船の規模を比較したイラストが以下のページにあります。

http://erenow.com/common/sapiensbriefhistory/sapiensbriefhistory.files/image055.jpg

ここで興味深いこととして、『サピエンス』では、大日本帝国についての記述は特に見当たりませんが、この戦前の日本の帝国は、近代のトルコ、インド、中国等のアジアの帝国と同様、認識的拡張主義に「基づかない」、「既存の世界観の拡張」を図るだけの帝国だったと言えると思います。

一方では、近代ヨーロッパの歴史は、首尾一貫して、認識的拡張主義に基づいた歴史で、コロンブスのアメリカ大陸発見、アメリカ独立宣言、東海岸からカリフォルニアに向かった「ゴールドラッシュ」、奴隷解放、電球・自動車・飛行機・電話・ラジオ・テレビの発明、不幸な二つの世界大戦後の「核軍縮」、アポロ 11 号の月面着陸等を経ながら、1960 年代後半の「カウンターカルチャー」の「意識の革命」を契機として起こった、現代のインターネット革命、IT 革命、分子生物学 (DNA/遺伝工学) 革命、等の歴史の流れにも、この認識的拡張主義が綿々と継続されてきている、という、『サピエンス』読了後の私の見解は、うがりすぎた見方でしょうか。

私は、上記に、「今後、日本人で、上記のアメリカのモデル企業を創始した『幻視家』、あるいは、その流れを組むハラリ氏のような『文化の牽引家』が現れるとしたら、私の言う『「カウンターカルチャー」的思考形態』が第一の必要条件となる」と書かせていただきましたが、実は、この「『カウンターカルチャー』的思考形態」と「近代ヨーロッパ帝国の『認識的拡張主義』」はイコールで結ぶことができると思います。

かりにこの等価公式が妥当性をもって成立するのであれば、国内では、正式に輸入もされないまま死語になっていて、誰も理解できなくなっている「カウンターカルチャー」の概念を、国内の人々に対しては、「認識的拡張主義」と言い換えていけばいいだけということになります (笑)。 ここで興味深いことは、「認識的拡張主義」とは、あくまでも「自分の世界地図の拡張」であって、「自分の世界地図の否定」ではない、ということです。 語弊を恐れずに言うと、アメリカ大陸を発見したコロンブス、メイフラワー号でアメリカに渡った清教徒たちの「命知らずさ」と第二次世界大戦末期の神風特攻隊の日本人零戦飛行士の「命知らずさ」の間には、もしかしたら差異はそれほどなく、違いは、命をかける対象だけにあった、と言えるかもしれません。

すなわち、前者は「自分の世界地図の拡張」 (すなわち「自分ありき」) に命をかけ、後者は天皇 (すなわち「他者ありき」) に命をかけただけの違いかもしれません。

ちなみに、私が過去 30 年にわたって研究・教授してきている NLP と、その発展系である私独自の「実践的顕魂学」は、まさしく「認識的拡張主義」の精神を個々人の実際の生活でいかに具現化できるかのためにだけ開発された「実践的方法論」であり、「資格取得のための表面的な技能」などではないことは、言わずもがなです (笑)。

5) ハラリ氏によれば、現代社会における最新の、遺伝子を操作する「分子生物学 (DNA/遺伝工学) 革命」は、東アフリカでホモ サピエンスが生まれた 20 万年前から現代までの「アナログ的進化」を超越して、人間が「創造主」になりえる「デジタル的進化」を開始した、ことになります。 同氏は、この革命を「生物学的」、「サイボーグ的」、「無生物的」エンジニアリングの三層に分けていますが、この過程で、人類は神になる、と提唱しています。 以上が、私の書評です。

「人類が神になる過程」を著した、ハラリ氏の続編の『Homo Deus: A Brief History of Tomorrow (神としての人類: 未来の歴史概観)』が、いったいどういう展開になるのか、今からワクワクしています。 ちなみに、ハラリ氏の書も、私の書評も、「近代西洋帝国主義至上主義」の嫌いが強いと思いますが、私自身、この立場も、他のすべての主義と同様、究極的には、どうでもいい「想像の産物」であることは認識しています。 ただし、ハラリ氏の提唱する歴史的世界観は、極めて説得性のある「共同幻想」であり、グロバーリゼーションを標榜する世界の各近代国家の政治、経済、文化が、「実際に」この歴史的世界観で分析可能になる形で、動いている以上、そして、『サピエンス』が国内でもベストセラーとして受け入れられている以上、この「共同幻想」は、もはや「嘘でなくなった想像」であると言わざるをえません。 さらに、私は、個人的には、日本人も、「この『認識的拡張主義』という列車」に乗らないと、この「どん詰まりの状況」から脱出することはまず不可能ある一方で、仮に今からでもこの列車に乗る用意があるのであれば、神風特攻隊の DNA が残っている (すなわち、潜在的には、「西洋人以上の『堅物』の認識的拡張主義者」になれる) はずの日本人が、近い将来再度世界を牽引することも夢物語ではない、と思っています。

追記 (17/7/25): 上述にある「近代西洋帝国主義至上主義」あるいは「認識的拡張主義至上主義」について、本文執筆後に、ある方から「この考え方は『絶対的な妥当性』があると思いますか?」という質問を受けました。

これにつきましては、私は、「認識的拡張主義」(「近代西洋帝国主義」) は、ハラリ式の分析的観点か見れば、世界の歴史の動きが非常に明快に理解できる、という「実利性」があるという理由から、「一応」、現存するうちで「ベストの世界地図」ではないか、と見ているだけで、「絶対的な妥当性」はない、という立場にいます。

私は、それ以上に妥当な「世界についてのモデル」が存在するのであれば、それを発見した以降は、「認識的拡張主義」については口にすることはなくなると思います。これについては、「『カウンターカルチャー』的思考形態」についても、NLP についても、同じことが言えます。

また、かりにもし「認識的拡張主義」(「近代西洋帝国主義」) を否定したいのであれば、万人 (というよりも、特に、これらの主義の提唱者たち) が「納得できる形」で、それ以上妥当性があると思われるような認識論的世界地図を提示すればいいだけの話ですが、ただ、これには、相当のコミットメントと努力が必要となると思います。

なぜならば、認識的拡張主義者、すなわち、近代西洋帝国主義者たちは、「科学は完璧ではなく、仮説は、実際の実験と検証の過程の中で、常に覆されるためにあることを知って」いて、かつ、「各国が新大陸の調査のために派遣した調査団に植物学者、地質学者、民俗学者等を随行させ」、「土着の言語と文化を知る必要があると考えていて、インド統治下の英国官僚は、カルカッタ大学で 3 年間学び、英国と当事国の法律、サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語、数学、経済学、地理学その他を習得する必要があった」ということだからです。

そういう「自分の世界地図の外にあるもの」を知ろうとする努力もしないで、単にナイーブに自分の世界地図にしがみつくのは、いわば「ガキの喧嘩」と表現されるべきで、残念ながら、「大人の喧嘩」ができる西洋人 (近代西洋帝国主義者) に言い負かされてしまうのは当然の帰結だと言えるかもしれません (笑)。

インターネットに象徴されるグローバリゼーションがこれだけ広がっている現代社会で、「(たとえばの例ですが) 『英語』を話す機会がないので、日本人は英語ができない。できなくて当然だ」という論理はもはや通じなくなっていると思います。

興味深いことですが、現時点で、インターネットの英語文献は、自動翻訳でも読めますが、通常、頭の痛い日本語文しか生まれてこないことは、誰でも知っています (笑)。私は、今後どれだけ AI が発達しても、「完全自動翻訳」は不可能だと思っていて、その意味で、「いつか、努力しなくても英語の翻訳が読めるようになる」という「希望的観測的な『他力本願』」は捨てた方がいいと思います (笑)。

ちなみに、これは、「非常に重要な文化論」になると思うので、あえてこの議論をさらに続けてみますが (笑)、「今後どれだけ AI が発達しても、『完全自動翻訳』は不可能だ」という私の立場は、40 年前 (!) の 1970 年代後半に、早稲田大学の言語学教授の故川本茂雄氏が大学の講義で説明されていたことに基づいています。川本教授の主張の一部は、私の初期のメルマガで参照可能です。

http://www.creativity.co.uk/creativity/jp/magazine/backnumbers/002.htm#kawai

また、つい最近、完全日英バイリンガルの方が「完全自動翻訳の実現は不可能だろう」と言っているのを聞きました。

なぜ私が「完全自動翻訳」は不可能だと思うのかの根拠は、川本教授の説明に示唆されているように、日本語の文章のある要素が「統語・構文」的にどういう位置を占めているか、についての緻密な徹底的分析は、無数のデータを集めて「帰納法的」な解析をする、いわゆる「ビッグデータ解析手法」がどれだけ発達しても、もともと、とうてい不可能だからです。

(私が、以前英国でソフトウェア関連の「ローカライゼーション翻訳」をしていたとき、「事実上の標準規格」の翻訳支援ソフトである Trados を使用するように翻訳会社から「強制」されましたが、私は、このソフトはまったく嫌いでした。Trados は、単に、新しく出てくる文章群と既存の文章群との間の (コンテンツを無視した)「チャンク比較」をして、その類似性が 100% なのか 50% なのか 0% なのかを判定して、もし 100% であれば、既存の翻訳をそのまま使い、0% なら新規翻訳の必要が出てきて、50% なら一部「手動で」編集翻訳し直す、という指針を与える一方で、統語・構文・文法的な側面を「完全無視」したソフトでした。統語・構文的に複雑な長文しか書かなかったプルースト至上主義者の私が、そういうソフトを好きになるはずはありません (笑)。)

ちなみに、最近話題で、かなりの将来性がありそうな「ディープラーニング」でも、私には、おそらく、人間の脳と同じくらい正確なレベルでの「完全自動翻訳」は不可能では、というふうに直感的に思えます。

これは、もしかしたら、「純粋なメタ (観照者)」は、ゲーデルの不完全理論が示唆するように、「常に既存のボックスを出た何か」であり、「アプリオリ (先験的)」に、「演繹法的」に、「外から与えられる何か」なので、「『既存のものを基盤』にした学習」ではけっしてそのメタ的視点を生み出すことはできない、というメカニズム (このメカニズムは、ハラリ式の「神としての人類」と関連してくると思いますが) と関係しているように思えます。

その意味においては、私は「シンギュラリティ否定論者」であると形容できるかと思います (ただし、私個人は、AI が人間を超えることを心配するよりも、人間が神になる努力をすべきだ (笑) という、極めて興味深い立場を取っています。かりにもし、人間が神になることがシンギュラリティの一種と定義できるのであれば (定義可能と思いますが)、その意味において「のみ」、私は、「シンギュラリティ肯定論者」であると形容可能です)。

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