CTO楠正憲氏がJapan Digital Designのエンジニア組織を語る──仮想通貨犯追跡からビッグデータ分析・ブロックチェーンの技術開発まで
三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)が、FinTech事業の深化を狙って2016年に立ち上げた内部組織が、2017年10月にスピンアウトして生まれた会社「Japan Digital Design」。2018年11月には、ホワイトハッカーチームによる仮想通貨ハッキング犯の追跡でメディアにも大きく採り上げられた。CTOである楠正憲氏が作り上げようとするエンジニア組織はどんなものか。そこで働き始めたエンジニアはどんなバックグラウンドを持つ人たちなのか——。
罠を仕掛けて、犯人の送金IPアドレス逆探知に成功
仮想通貨の交換サイト「Zaif」で2018年9月、約70億円分の仮想通貨が盗まれた事件があった。国内外のセキュリティの専門家らがボランティアでブロックチェーンの動きを追跡、仮想通貨がどこからどこへ移送されているかを追いかけていた。その成果が上がったのが、10月下旬のこと。犯人らが接続した3つのIPアドレスの取得に成功したのだ。
「犯人追跡の手法は論文ベースでは2014年に発表されていますが、実際の事件後に罠をかけて張り込み、送金指示がどのIPアドレスから行われたかまで探知したのはおそらく世界で初めてじゃないでしょうか」
と語るのは、Japan Digital Design(以下、JDD)のCTO楠正憲氏だ。罠を仕掛けたホワイトハッカーの一人で、犯人追跡のいわば特捜本部に日本橋のJDD本社オフィスを提供した。これに限らず、同社のオフィスには社外の異業種や大学等研究機関のデータサイエンティストやエンジニアが集まり、オープンイノベーションの創発を競い合う。
▲Japan Digital Design株式会社 CTO 楠正憲氏
楠氏は同社CTO以外にも、ISO/TC307(ブロックチェーンと分散台帳技術に係る専門委員会)国内委員会委員長、内閣官房情報化統括責任者補佐官、OpenIDファウンデーションジャパン代表理事など、複数の顔を持つITアーキテクトだ。内閣官房ではマイナンバー制度とマイナポータルの構築に多大な貢献をしたことで知られている。ただ、今となってはどれが本業だかわからない。「今はJDDのCTOが本業で、内閣官房は副業ってことで」と笑う。
インターネット総合研究所、マイクロソフト、ヤフーで要職を務めてきた。ヤフーのID本部本部長時代の頃から、ブロックチェーンの研究は進めていたが、「仕事でやっていないと詳しくなれない。もっと世の中で動いているものを触りたい」と、JDDからのオファーを受けて、2017年10月に移ってきた。
「これまでの転職先は何カ月も一緒に仕事をしているとか、信頼できるところしかなかったが、誕生したばかりの会社に飛び込むのは初めてのこと。最初から週に3日しか顔を出せませんなどと、難しい条件を提示したのに、全部飲み込んでくれた。上原CEOが掲げるビジョンに共感できたというのも、ここを選んだ動機です」
エンジニアが機動的に働ける会社と社会へ
JDDのCEO上原高志氏は、三菱UFJ銀行時代から、新しい技術を活かして新しい金融サービスを生み出すためには、外部のシステムベンダー依存ではいけない。そこから脱却し、自分たちでエンジニアを抱えて、小回りがきく内製部隊を作りたいと語ってきた。
⇒ 三菱UFJからスピンアウトしたJapan Digital Design(JDD)が模索する金融サービスの新しいカタチ
楠氏もまた、2017年1月にリリースしたマイナポータルが当初、「使い勝手が悪い」と大きな不評を買った経験から、「ベンダー任せ」の限界をあらためて感じていた。
「IT業界には重層的な下請け構造があり、下位のベンダーにプロジェクトを丸投げするというのは当たり前のことです。その問題を突き詰めると、結局は、ITエンジニアなどの雇用流動性の低い社会で、そのバッファとして業界が機能していたということがわかります。それにメスを入れるためには、これからの企業は契約のいかんにかかわらず、機動的に人材を採用すべきだし、組織に縛り付けるようなことをしていてはダメです。
さらに、終身雇用という保証に変わるリスクヘッジとして副業を認める方向に行かないといけない。せっかく育てたのに人材が流出してしまうことを恐れるなら、そうならないように待遇を強化すべきです。一つの企業の狭い枠で考えるのではなく、人材流動性が高くて、そこに必要な能力やノウハウがたまっていくような社会。それを、ベンダー側ではなく、ユーザー企業主導で作りたい」
そういう楠氏の思いが一致したのだ。ちなみに、Zaifから流出した仮想通貨を追跡したチームは、犯人を突き止める前の週の木曜日にTwitterで参集を呼びかけ、土日でハッカソンを開催、月曜日から追跡を始めた即席のチーム。犯人探知のためにAWS上に200以上のノードを一斉に立ち上げたが、その活動に気づく社内の人はほとんどいなかった。
必要な時に必要なタイミングで人材を集め、プロジェクトを成し遂げれば解散する。そうした機動性あふれるエンジニア集団のパワーがいかんなく発揮された一例でもある。
タスクを一つひとつ打ち返しながら、自立的に自分の仕事に取り組む
どうやったら、機動性の高い企業、流動性の高い社会を作れるのか。楠氏はJDDのCTOとして、まさにいまその“実証実験”に取り組んでいるところだ。
「運用を抱えてしまうと、そこに縛られる。プロジェクトによっては早い段階で引き受け手を決めて、そこに移管することも大切です。たしかに当社の事業でも、新しいAIモデルの開発・分析を行う“MUFG AI Studio(M-AIS)”などは自分たちが運用に関わらざるを得ない。ただ、それべったりだと、エンジニアに新しいことにチャレンジする余力が失われる。理想的には、業務の5割以上の時間を、親会社に言われたことではなく、自発的な課題に割きたい」と言う。
幸い、JDDは96.7%MUFG(三菱UFJフィナンシャル・グループ)資本のベンチャー子会社とはいうものの、求められているのは単純な投資対効果ではない。
「グループが我々に期待しているのは、単に急成長してバイアウトして儲けをもたらすことではない。むしろ金融機関としてできなかったことを率先して試み、グループ内にこれまで存在しなかった知識や経験をもたらすこと。一般の大企業発ベンチャーとはそこが違います」
もちろん、エンジニアが新しいことを持続的にやり続けることほど難しいことはない。
「経営陣のやりたいことはたくさんあって、そのリストばかりが長くなる。それを一個一個打ち返しながらも、新しい技術を使って新しい金融サービスを生みだすという、会社の理念に沿って、それぞれのエンジニアが課題に自立的に取り組むことが求められています」
JDDの人々——レーサー兼エンジニアだった人材も
「プロジェクトの構成自体が普通ではない。私のようなインフラ基盤構築チームだけでなく、データサイエンスに詳しい人、MUFGの技術者、地方銀行から出向してきて、一緒に課題に取り組む人などさまざま。こんなコラボレーションができる機会はそうそうない」 と、転職の動機を語るのは中田大祐氏(24歳)だ。
▲Japan Digital Design株式会社 中田大祐氏
現在は前述のM-AISでビッグデータを解析する基盤構築に携わっている。楠氏によれば、MUFGはメガバンクの中では、クラウド活用では最も先行しているグループ。前職ではもっぱらオンプレミスのサーバーしかいじったことのない中田氏は、その知見をいま必死で吸収しているところだ。
M-AISはデータ分析では米Databricks社のパッケージを活用しているが、その技術も中田氏には全く新しいものだ。ただ、JDDには、メインで活用するAWS以外にも、Azure、Google Cloud Platformなど異なるクラウドサービスを使って、そのノウハウを積み上げ、その知見をグループ内にフィードバックする役割もあるから、中田氏が勉強しなければならないことはこれからますます増えていく。
「JDDは働き方も特殊。副業を推奨していて、私の周りにも週一日しか顔をださないエンジニアもいます。そういう副業をワークスタイルにしている人って、おしなべてスキルが高いし、いざという時には一人で何でもこなしちゃうサバイバル精神がすごい。非常に刺激的な環境です」
Java、Perl、SQL、Unityなどの技術や、一エンジニアからプロデューサーまでさまざまなポジションをこなした7年にわたるゲーム・エンジニアとしての経験を背景に、DeNAから転職してきたのは、中山太雅氏(35歳)だ。20代の頃は、レーシングドライバーとしてスーパーGTクラスを目指す、レーサーでもあった。
▲Japan Digital Design株式会社 中山太雅氏
「人に技術を伝えることが好き。いずれは国際的に活躍するテクニカルライターになるのが夢。そのためには、5年、10年と先を見た技術に関わりながら、英語のスキルも磨きたかった」というのが転職理由だ。JDDは外資系ではないが、英語を使う機会は前職より多い。ブロックチェーンの話を海外のエンジニアと交わすこともある。
業務ではブロックチェーン、とりわけスマートコントラクト技術を使ったサービスの開発に取り組んでいる。いずれはグループ内外に広めたいが、現在は、JDD社内に留めているサービスだ。ブロックチェーンについては、前職時代から趣味的に勉強は続けていたが、実際、その活用の最先端にあるJDDに入ると、想像以上の知識レベルの差があったという。
「趣味と業務では情報量がガチで違う。自分の知識では話についていくのがやっと。ただ、“周回遅れ”とまでは言えない今の段階で、しっかり業務の時間を使ってキャッチアップできるのは幸せかもしれません」
中山氏は、現在のメインの業務以外にも、インターネット関連技術の標準仕様を記した提案書「RFC」の翻訳などにも率先して関わる。誰に言われたわけではなく、自分とメンバーに必要だと思ったからだ。
放っておかれたときに何をするかで、エンジニアの真価が問われる
中山氏のように、誰に言われたわけではなく、自立的・自律的に技術に取り組む人こそ、JDDが求めるエンジニア像なのかもしれない。
楠氏は「エンジニアは放っておかれたとき何をするかで、その真価が問われる」という。JDDは運用・保守といったオペレーショナルな業務が少ないだけに、日々何をすべきかを、エンジニア自身が考えなければならないのだ。
「仮に放っておかれたとしても、その時間にやるべきことはたくさんある。僕だったら、なんとなくは理解しているけれど、実際はよくわかっていない技術を勉強する時間に充てたいですね。社内にはすごいキャリアの人がたくさんいるので、情報収集には事欠きませんから」と、中田氏も言う。
こうした自立性と共に、オープンソースへのコミットメントなど、ボランタリーな活動も、JDDではエンジニアに求める重要な要素の一つになる。
「ボランタリーワークというのは、給料を払っていない、あるいはもらっていない人たちともコラボするということ。それができるのだったら、権限や指揮命令系統で縛らなくとも、どんな人でも巻き込んで成果を生み出せるということですから」(楠氏)
JDDで働く要件として、従来のFinTechの経験は必要ない、と楠氏。
「むしろ、それは邪魔になるかもしれないですね。むしろ、“銀行業界はFinTechブームといわれているけど、テクノロジー的にもUI/UX的にもまだまだじゃないか。旧態依然とした銀行なんかディスラプトしてしまえ”というぐらいの生意気を言う人がいいですね。例えば、コンバージョン率のめちゃ高い出会い系サイトを作っていたというような人こそが、力を発揮できるかもしれないですよ(笑)」
JDDがこれからのエンジニアに求める金融イノベーション。それは単に技術だけが先行する世界ではない。金融は、人々にとって欠かせない社会インフラであるだけに、顧客体験の奥深いところにまで、針を刺して、その真のニーズを汲み上げなければならないのだ。その意味では、エンジニア自身が社会のアンテナになることが求められている。
「JDD自身がMUFGのアンテナであることを求められている会社。多様なバックグラウンドを持つ人たちが、それぞれの得意領域、それぞれの持ち場で、先回りして課題を解決していく、そういう姿勢が欠かせないんです」(楠氏)